- 2017-3-15
- 地域情報
横浜を代表する歌人も愛した、裏横浜の隠れお花見スポット
横浜駅の賑やかな繁華街を抜け、東口から京浜急行・戸部駅方面へ向かい、ちょっと下町情緒が漂う商店が立ち並ぶ坂を登り、少々曲がりくねった道を奥へ。
その先の見晴らしの良い高台に、裏横浜の隠れた「お花見スポット」はあります。
「掃部山(かもんやま)公園」です。
この階段を登ると、目の前のみなとみらいのランドマークタワーが「ようこそ!」とばかりに迎えてくれます。
更に進んでいくと、飯岡幸吉の歌碑を横目に見ることができます。
まちなかに 緑をたもつ 掃部山 ましてや虫を 聴く夜たのしき
幸吉
飯岡幸吉は、明治31年6月29日生まれ・昭和48年7月17日に75歳没の、横浜市西区花咲町出身の歌人です。
銀行員として勤務する傍ら歌人としての活動を行い、斎藤茂吉の門下となり、昭和3年には正岡子規の短歌論を支持する「アララギ」というグループに入会しました。
その後満州への転勤、太平洋戦争と終戦、日本への帰国を経て、昭和43年には『久木』の編集長兼発行人となり、更に「港の丘」「横浜在住70年」などを出版しています。
昭和42年度には、横浜文化賞(芸術部門)も受賞。まさに、横浜を代表する歌人なのです。
井伊直弼の銅像
そんな横浜の歌人・飯岡幸吉も愛した公園内を歩き進むと、井伊直弼の銅像が見下ろす「銅像広場」が目の前に広がります。
井伊直弼といえば、日米修好通商条約に調印し、神奈川(横浜)・長崎・兵庫・新潟の港を開いたこと、そして「桜田門外の変」で暗殺されたことなどで知られています。
学生時代に、歴史の教科書でその名前を知った方も多いでしょう。
一体なぜこの場所に、教科書に載っている人物の銅像があるのでしょう?
実はこの銅像は、彼が横浜の開港に貢献したことを記念して、この見晴らしの良い公園に建てられたのです。その際に、公園のある山を井伊家が買い取りました。
井伊直弼の官位は「掃部頭(かもんのかみ)」でした。
そこで、大正3年に井伊家から横浜市にこの山が寄付された際、ここは「掃部山公園」と呼ばれるようになったのでした。
「安政の大獄」で吉田松陰ら幕末の志士らを粛正など、歴史の教科書ではネガティブな印象を持たれがちな、井伊直弼。
しかし、彼が朝廷の許しを得ずに条約に調印することを決断したのは、「今の江戸幕府には、外国と戦争をする力はない。それより、外国と国交を行い、国力を蓄えていく方が賢明だ」と判断したが故でした。
当時の日本は、反対派の意見に耳を傾ける余裕すら持てないほど追い詰められていたのです。
自身が開港した横浜港を見つめる井伊直弼は、今、何を思っているのでしょうか?
某企業の「お花見場所取り騒動」
さて、今はひっそりとしたこの公園内ですが、お花見シーズンになると、満開の桜でいっぱいになります。まさに「穴場のお花見スポット」として、インターネットでも話題となっているくらいです。
実はそれ故に、ちょっとした騒動の舞台となった過去があります。
それは、2016年のお花見シーズンの、3月28日頃からネット上で話題となりました。某企業の会社名入りのブルーシートが、お花見の場所取り目的で公園の実に半分以上を占拠している有様が撮影され、ツイッターに投稿されました。
「エグイ場所取りをしとる」
この企業は、3月28日〜4月1日までの5日間、日によっては1日に10時間も公園内を占拠していたというから、驚きです。
この投稿が拡散されると、「やっちゃ駄目な類なミス」「何様のつもりだ」などという非難が相次ぎ、まとめサイトや掲示板などにも広まり「炎上」したことは、言うまでもありません。
ここまで大騒ぎになってしまっては、場所取りを敢行した某企業も知らん顔を決め込んでいるわけにはいきません。
ツイッターを見て現地の状況を知った同社の担当者が、「花見は会社としてではなく、社員が自主的に行っているもの」などと説明、更には「あまりにも非常識な行為と判断し、ブルーシートの撤去を命じました。ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫びします」と謝罪する事態となりました。
2017年3月中旬の今は、まだ寒々した雰囲気の掃部山公園ですが、2017年のお花見シーズンも間もなく訪れます。
楽しいお花見は、他のお花見客への配慮を忘れずに、常識の範囲で行いましょう。
スポットデータ
- 掃部山公園
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- 横浜市西区紅葉ケ丘57
- JR「桜木町駅」徒歩15分
「紅葉坂」バス停より徒歩6分
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