【歴史探訪】-高島町にあった「遊廓」の生い立ちと衰退を探る-

「高島遊廓」について

横浜の遊廓の歴史について、特に関内周辺の遊廓の歴史については、姉妹サイト関内新聞に何件か書いています。特に横浜公園にあった遊廓については、幕末開港時には「港崎遊廓」だったことを書きました。

その「港崎遊廓」は、1866年の「豚屋火事」で全焼してしまい、遊廓そのものは今の羽衣町、厳島神社のあたりに「吉原遊廓」という名前で移りました。

しかし、その遊廓も1871年の火災で全焼してしまい、引っ越しを余儀なくされることになります。

そのときに移転をした場所、そこは関内関外よりずっと神奈川方向に離れたところ、今の高島町付近に「高島遊廓」という呼び名で再興されました。

「高島遊廓」、その誕生

高島遊廓は、元は江戸で材木商を営んでいた、高島嘉右衛門さんが建設したものです。

そうなった経緯は:

1871年、新橋から横浜まで鉄道を敷設しようという計画が、明治政府によってなされていました。その計画の中心人物は、伊藤博文と大隈重信でした。

その一方で高島嘉右衛門は当時、関内の尾上町に「高島屋」という大旅館を経営しており、政財界人とのパイプも出来上がっておりました。ちなみに百貨店の「髙島屋」とは全く関係ありません。

東京横浜間の鉄道敷設計画があるという情報を入手した高島嘉右衛門は、

――神奈川(青木橋)から野毛方面(戸部の富士見橋)までの湿地(もしかしたら浅い海)を埋め立てて、線路を敷設するための用地を作らせてほしい――

と、伊藤博文と大隈重信に申し出て、許可をもらいました。

そのときの功績で、埋め立てた土地が「高島町」と呼ばれるようになり、現在の高島町の元になりました。

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横浜案内絵図 再版 mapu,yokohama 拡大、右下部分加筆(横浜市中央図書館所蔵)

地図内の赤い四角形で囲んだ中にある円弧上の土地が、その当時の「高島町」です。

さて高島嘉右衛門は、これだけの土地を埋めて立てて鉄道用地にしたものの、残りの土地はほかの用途に使う予定でした。

まず思いついたのは、その当時の主要な用途である農地です。しかし、海辺の細長い埋め立て地は、残念ながら農地には適してないことがすぐに判明したそうです。

工業用地にするにも、まだ明治の初旬はそこまで日本の工業化は進んでませんでした。その当時の民間実力者である高島嘉右衛門の発想では、遊廓のような場所にするのが最適と思ったそうです。

ところが肝心の遊廓誘致許可は、まだ県の当局のほうからは下りてませんでした。しかも、もっと辺ぴな「久保山」という場所を遊廓誘致に進めようとしていたそうです。それでは、せっかく大金払って埋め立て事業に協力した高島嘉右衛門には何のメリットもありません。

どうやら、当時の遊廓「吉原遊廓」にあった二大遊廓「岩亀(がんき)楼」と「神風(じんぷう)楼」には、先走って誘致を働きかけたようです。

その結果、これら二つの遊廓は当時の「高島町一丁目」にこぞって遊廓を建設したそうです。

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横浜案内絵図 再版 mapu,yokohama 拡大、部分加筆(横浜市中央図書館所蔵)

この地図の赤で囲んだところが当時の高島一丁目で、この場所に岩亀楼と神風楼が建設されたそうです。

現在の地図だとちょうどこの辺りになります。

 
この辺りの写真は現在、こんな景色になってました。

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今となっては、国道1号線と首都高速が行き交う道路の下に、当時の線路跡と遊廓跡が眠ってらっしゃると、自分に納させるしかなさそうです。どうしても、その当時の遺跡がみつかりませんでした。

近くの二代目東京駅の後のような遺構でもあればいいのですが。

この二つの楼閣が建設されたことが、どうやら既成事実のようになったようで、県からも追認という形で高島町の遊廓が出来上がったそうです。

ちょうど運悪く(運よく?)、先述の「吉原遊廓」が1872年の火災で炎上してしまったので、他の遊廓もこぞってこの高島遊廓に引っ越してきました。

その遊廓の佇まいは、ものの見事に高島町の一丁目から九丁目まで連なったそうです。さぞかし壮観だったことでしょう。

この二つの遊廓の写真と浮世絵が残ってました。

まず、岩亀楼は写真が残ってました。

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横浜史料 開港七十年記念 高島町遊廓岩亀楼(横浜市中央図書館所蔵)

木造建築ですが3階建ての立派な建物で、洋館のような時計台もあります。当時は時計台のある建築はとても珍しかったそうです。さぞかし豪華な楼閣だったと想像できます。

一方、神風楼は浮世絵が残ってました。

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横浜高島町神風楼之図(横浜市中央図書館所蔵)

こちらも豪華な楼閣だったようすがよくわかります。

ところでこの浮世絵を見ますと、遊廓の近くを鉄道が走ってます。このような景色は、現在の地方都市の駅の周辺でも見たことがあります。駅の周辺が全国的に有名な風俗街の駅など、まさにこのような様子です。

つまり当時の鉄道の車窓を想像すると、豪華な鉄道の旅の最終段階に、わざわざ遊廓の林立する花街の中を走っていたことが想像できます。

ところで、当時の鉄道の価格を今の貨幣価値に換算すると、東京横浜間は何と最低でも5,000円以上したそうです。きっと上流階級すなわち華族階級の人々やお金持ちがよく乗られてたのかも知れません。

そのような方々をお迎えする側の行政サイドとしては、車窓の最後に花街というのもあまりに具合がわるいと思ったのでしょう。

たまに天皇陛下が横浜にお召列車で行幸されることもあり、このときは横浜に近づいたらすべての車両の窓を閉じさせたそうです。このようなことが続いて、当時の行政側が放置することはなかったのでしょう。

何と、1881年に高島遊廓は閉鎖しなければならなくなってしまいました。火事で焼失することはなかったとはいえ、10年で閉めなければならなかった遊廓側は大きな痛手を受けたそうです。

高島遊廓閉鎖後、遊廓そのもののは一時的に長者町付近に移ってから、最後は関内吉田新田の奥にある永楽町真金町のところに、「永真遊廓」として誕生することになりました。高島遊廓で隆盛を誇っていた岩亀楼と神風楼は、移転に次ぐ移転の費用がかさみ、破産・廃業になったそうです。

ただ、「永真遊廓」はずっと残り続け、昭和33年の売春防止法施行まで続くことになりました。

「岩亀横丁」とは

ところで、JR桜木町駅とJR横浜駅の間に「岩亀横丁」という通りがあるのはご存知でしょうか?

新横浜通りの雪見橋交差点のところを斜めに入ったところが、「岩亀横丁」です。

 
ここの通りに足を運んでみました。

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「岩亀」の名前を借りたお店や医院などがあります。遊廓の名前に、そのような親しみがあるのでしょうか。実は、高島町の線路沿いに「高島遊廓」があったころ、この通りの付近に「岩亀楼」の遊女のための療養所があったそうです。

おそらく、その療養所で亡くなった遊女もいたことでしょう。

この通りに面して「岩亀稲荷」という神社がありました。この亡くなった遊女たちを供養するために建立されたのかも知れません。

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このお稲荷さんはひっそりとした佇まいですが、この辺りではちょっとしたパワースポットのようです。私もしばし参拝して、この探訪を終わることにしました。

終わりに

関内新聞でも、港崎遊廓から永真遊廓に至るまでの遊廓の変遷を取材しておりましたが、この「高島遊廓」の部分だけ抜けていました。

今回「高島遊廓」を取材できましたので、横浜開港から売春防止法施行までの間つづいた、横浜の遊廓の歴史を繋げることが出来ました。

これからも、横浜のもっと面白い部分を見つけ出すことが出来ればと思っています。

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この記事の著者

佐野 文彦

佐野 文彦

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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